大東亜戦争におけるベトナムの歴史

ベトナムは日本から南東へ約2500km、インドシナ半島の南シナ海側に位置する。人口は約8600万人(2009年)であり、その内訳の約85~90%と大多数を占めるのがベト人、いわゆるベトナム人である。その他華人が3%のほか、53の少数民族がいる。国土面積は約33万平方kmであり、日本の約9割である。

国土は南北に長く、気候には地域差がある。首都ハノイのある北部は四季があり、冬は最低気温が14度程度であり、肌寒くなるときもある。一方南部の商都ホーチミンは平均気温は28℃で熱帯気候であり、1年は乾期と雨季に分かれる。5月から11月下旬までが雨季であり、年平均降水量は約1800mmで日本と同程度の多雨地帯である。

19世紀初頭にベトナム人によって建国された阮朝は現在のベトナムとほぼ同じ領域を国土としていた。阮朝は鎖国政策を取っていたが、フランスは武力侵攻を行って阮朝やカンボジアなどの周辺領域を植民地化し、1887年にフランス領インドシナを成立させた。第二次世界大戦が勃発すると、昭和15年(1940年)6月にフランスはドイツに降伏したが、その後成立した親独的政権であるヴィシー政府はフランス領インドシナを初めとする大部分の植民地を引き継いだ。一方、日本は昭和12年(1937年)に勃発した支那事変以降、中華民国と全面戦争状態であった。中華民国はベトナムを通過して昆明に至る援蒋ルートを通じて連合国側の援助を受けていた。

日本は援蒋ルートを遮断するため、昭和15年(1940年)9月に北部仏印進駐を行った。ヴィシー政府は日本の同盟国ドイツの強い影響下にあったため、進駐を受け入れざるを得なかったのである。仏印ルートを遮断されたアメリカ、イギリスは新たにビルマルートを設定した。日本はビルマルートを牽制し、また東南アジア進出の足がかりを得るため、昭和16年(1941年)7月に南部仏印進駐を行った。しかし、これはアメリカの対日石油禁輸などの制裁を招き、対米英戦開戦に向けて突き進むこととなった。

仏印進駐は占領を意図しておらず、統治権はフランス側に残された。軍事面では仏印軍の重火器が日本軍の管理下に置かれたものの、日本・フランスの共同警備の体制であった。また、軍事協定によってフランスから飛行場が提供され、北部仏印から中華民国南部への空襲に使用された。サイゴンには海軍第二二航空戦隊が配備された。

昭和16年(1941年)12月、日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告して大東亜戦争が開戦すると、日本軍は南方作戦を開始した。この作戦の鍵となるのが、イギリスの東洋の一大根拠地、シンガポールの攻略であった。しかし、ここで攻略の大きな障害となっていたのが戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を擁する英国東洋艦隊(Z部隊)であった。しかし、サイゴンの海軍第二十二航空戦隊は開戦わずか二日目のマレー沖海戦で英国東洋艦隊の2戦艦を撃沈したのである。

作戦行動中の戦艦が航空機のみによって撃沈されたのは史上初の出来事であった。日本軍はこのマレー沖海戦で周辺の制海権を握ってマレー作戦を有利に進め、上陸からわずか2ヶ月強で英軍を降伏させ、シンガポールを占領した。

昭和19年(1944年)に欧州戦線で自由フランスと連合国軍が反攻に転じ、フランスからドイツ軍が駆逐されるとヴィシー政府は解体された。日本はその後も仏印政府による統治を認めていたが、自由フランスによってヴィシー・日本間の協定無効宣言がなされると、日本軍は仏印処理によって仏印政府を解体した。この頃よりアジア・太平洋方面でも戦局は悪化の一途をたどったが、仏印では大きな戦闘が起きることなく終戦を迎えた。

仏印は終戦後に進駐した連合国軍によって南北に分割されたが、ベトナム戦争で昭和50年(1975年)4月に北ベトナム軍がサイゴンを陥落させ、唱和51年(1976年)7月のベトナム社会主義共和国樹立で統一が達成された。ホーチミンの経済はベトナム社会主義共和国の成立で社会主義化されると停滞したが、昭和61年(1986年)のドイモイ政策において市場メカニズムや対外開放政策が導入されると大きく成長した。

ベトナムでは大東亜戦争期間中に大きな地上戦は発生しておらず、現在のベトナムには遺跡や日本軍兵器などは特に遺っていないようである。ベトナム人にとっての「戦争」とは「ベトナム戦争」であり、博物館などにベトナム戦争関連の遺物は多く残されている。