「バリ島沖海戦」

(昭和17年2月19日夜半~20日未明)

南方作戦

昭和16年12月8日、大東亜戦争開戦と共に日本軍の「南方作戦」が開始された。「南方作戦」は順調に推移し、昭和17年2月初旬までには、英領マレー半島・シンガポールと米領フィリピン諸島の要地は既に日本軍が占領していた。そして、日本軍の「南方作戦」に於ける最大の目標は蘭印(オランダ領インドネシア)であり、「蘭印攻略」に於いては、蘭印の中心地であるジャワ島の攻略が最終目標であった。

そこで、「ジャワ島攻略」に、先立って周辺海域の制空権・制海権を確保しておく必要があった。
既に、「マレー半島攻略」「フィリピン諸島攻略」と並行して、ジャワ島の外郭要地(スマトラ島・セレベス島・ボルネオ島)の攻略が開始されていた。 蘭印(オランダ領インドネシア)も、スマトラ島・セレベス島等の要地は既に日本軍が占領、蘭印の中心地であるジャワ島への侵攻を目前に控えていた。

この時、南方方面一帯の連合軍海軍は、英領・米領から脱出してきた各国海軍艦艇がジャワ島チラチャップ港を中心として集結し、ABDA艦隊(米・英・蘭・豪海軍艦艇の合同艦隊)を編成していた。また、ジャワ島の各飛行場には、連合軍機100機前後が残存し、日本軍の侵攻に備えていた。

この様にジャワ島周辺には残存の連合軍兵力が集結しており、その攻略に当っては激しい抵抗が予想された。そこで、ジャワ島により近い場所に飛行場を推進し、ジャワ島周辺の制空権・制海権をより強固なものとする必要があった。

日本軍の「バリ島攻略」の決定

昭和16年12月8日、大東亜戦争開戦と共に日本軍の「南方作戦」が開始された。「南方作戦」は順調に推移し、昭和17年2月初旬までには、英領マレー半島・シンガポールと米領フィリピン諸島の要地は既に日本軍が占領していた。そして、日本軍の「南方作戦」に於ける最大の目標は石油資源の豊富な蘭印(オランダ領インドネシア)であり、「蘭印攻略」に於いては、蘭印の中心地であるジャワ島の攻略が最終目標であった。

「南方作戦」推移(昭和17年2月18日)

そこで、「ジャワ島攻略」に、先立って周辺海域の制空権・制海権を確保しておく必要があった。

このため、既に「マレー半島攻略」「フィリピン諸島攻略」と並行して、ジャワ島の外郭要地(スマトラ島・セレベス島・ボルネオ島・アンボン島)の攻略が開始されていた。
これらジャワ島外郭要地の攻略は以下の様に実施されていった。

「ボルネオ島ミリ(ブルネイ)攻略」(昭和16年12月16日)
「ボルネオ島クチン攻略」(昭和16年12月24日~25日)
「ボルネオ島タラカン攻略」(昭和17年1月11日~13日)
「セレベス島メナド攻略」(昭和17年1月11日~13日)
「セレベス島ケンダリー攻略」(昭和17年1月24日)
「ボルネオ島バクリパパン攻略」(昭和17年1月24日~25日)
「アンボン島攻略」(昭和17年1月31日~2月3日)
「セレベス島マカッサル攻略」(昭和17年2月9日)
「ボルネオ島バンジェルマシン攻略」(昭和17年2月10日)
「スマトラ島パレンバン攻略」(昭和17年2月14日~18日)

更に、日本軍が占領したこれら要地の飛行場(セレベス島ケンダリー・アンボン島等)には日本海軍航空隊( 「零戦」装備の第三航空隊・台南航空隊)が進出した。
進出した日本海軍航空隊は周辺の連合軍機を駆逐し、ジャワ島周辺の制空権を確保しつつあった。

この時、南方方面一帯の連合軍海軍は、英領マレー半島・シンガポールと米領フィリピン諸島から脱出してきた各国海軍艦艇がジャワ島南岸のチラチャップ港を中心として集結し、ABDA艦隊(米・英・蘭・豪海軍艦艇の合同艦隊)を編成していた。また、ジャワ島各地飛行場には、連合軍機100機前後が残存し、日本軍の侵攻に備えていた。
この様にジャワ島周辺には残存の連合軍兵力が集結しており、「ジャワ島攻略」に於いては、連合軍の激しい抵抗が予想された。そこで、日本軍は、ジャワ島により近い要地を占領して飛行場を確保し、航空隊を進出させる事で、ジャワ島周辺の制空権・制海権をより強固なものとする必要性を認めた。
バリ島はジャワ島の東に位置し、中心地デンパサール付近には蘭印軍の飛行場(現「デンパサール空港」)があった。バリ島を占領して飛行場を確保すれば、ジャワ島周辺の制空権確保が容易になると考えられた。

ここに、特に日本海軍航空隊(第十一航空艦隊)の強い要望によって、「バリ島攻略」が決定した。

「バリ島沖海戦」に於ける各国兵力

バリ島沖の日本軍兵力
海軍
バリ島攻略部隊
第八駆逐隊(第二艦隊第四戦隊所属):司令(阿部俊雄大佐)     
 駆逐艦「朝潮」「大潮」「満潮」「荒潮」
バリ島上陸船団(バリ島上陸部隊が乗船)
 輸送船 「笹子丸」 「相模丸」

陸軍
バリ島上陸部隊(バリ島上陸船団に乗船)
今村支隊:支隊長(今村亦兵衛少佐)     
歩兵1個大隊・山砲1個小隊・独立1個小隊・その他(陸軍歩兵第四八師団より抽出)

バリ島沖の連合軍兵力
海軍
ABDA艦隊(米・英・蘭・豪海軍連合艦隊):指揮官(オランダ海軍 カレル・ドールマン少将)
第1悌団(ジャワ島チラチャップ)
 オランダ海軍
  軽巡「デ・ロイテル」(J.B.メーステル中佐)「ジャワ」
  駆逐艦「ビートハイン」「コルテノール」(座礁により不参加)
 米海軍(司令:E.N.パーカー少佐)
  駆逐艦「ジョン・D・フォード」(J.E.クーパー少佐)「ポープ」(W.C.ブリン少佐)
第2悌団(ジャワ島スラバヤ)
 オランダ海軍
  軽巡「トロンプ」
 米海軍第58駆逐小隊:司令(米海軍 T.H.ビンフォード中佐)
  駆逐艦「スチュワート」(ハロルド P.スミス少佐)「パロット」(J.N.ヒューズ大尉)「ジョン・D・エドワース」(H.E.エックルズ少佐)「ビルスベリー」(H.C.パウンド少佐)
第3悌団(ジャワ島スラバヤ)
 オランダ海軍
  魚雷艇「TM-4」「TM-5」「TM-6」「TM-7」「TM-9」「TM-10」「TM-11」「TM-12」「TM-13」(会敵せずに帰還)

「バリ島沖海戦」の推移(昭和17年2月19日~20日)

「バリ島沖海戦」推移(昭和17年2月18日~19日未明)

「フィリピン諸島攻略」を行う第十四軍隷下の陸軍歩兵第四八師団から抽出された歩兵1個大隊を基幹とし、今村亦兵衛少佐を支隊長とする今村支隊が編成され、「バリ島攻略」ににあたる事になった。
昭和17年2月5日、今村支隊は、輸送船「相模丸」「笹子丸」に乗船、フィリピン諸島ルソン島リンガエン湾を出航、セレベス島マカッサル泊地に向かった。

2月17日、オランダ海軍ヘルフリッツ中将の下に、日本軍のバリ島攻略部隊・バリ島上陸部隊がセレベス島マカッサル泊地を出航ようとしているとの情報が入った。
へルフリッツ中将は直ちに、ジャワ島チラチャップ港にあったABDA艦隊(米・英・蘭・豪海軍連合艦隊:オランダ海軍カレル・ドールマン少将指揮)に対して、日本軍のバリ島攻略部隊の攻撃を下令した。

ドールマン少将は、軽巡洋艦3隻(オランダ海軍「デ・ロイテル」「ジャワ」「トロンプ」)・駆逐艦7隻(オランダ海軍「ピートハイン」・米海軍「フォード」「ポープ」「スチュワート」「パロット」「エドワーズ」「ピルスベリー」)からなるABDA艦隊に対して出撃を命じた。

ドールマン少将は、指揮下のABDA艦隊(軽巡3隻・駆逐艦7隻)を以下の様に3つの悌団に分けた。
    第1悌団(ジャワ島チラチャップ)
        オランダ海軍軽巡洋艦「デ・ロイテル」「ジャワ」・オランダ海軍駆逐艦「ビートハイン」「コルテノール」・米海軍駆逐艦「ジョン・D・フォード」「ポープ」
    第2悌団(ジャワ島スラバヤ)
        オランダ海軍軽巡洋艦「トロンプ」・米海軍駆逐艦「スチュワート」「パロット」「ジョン・D・エドワース」「ビルスベリ」
    第3悌団(ジャワ島スラバヤ)
        魚雷艇「TM-4」「TM-5」「TM-6」「TM-7」「TM-9」「TM-10」「TM-11」「TM-12」「TM-13」 (会敵せずに帰還)

駆逐艦「荒潮」

2月18日01時、今村支隊を乗せた輸送船「相模丸」「笹子丸」は第二艦隊第四戦隊第八駆逐隊(司令:阿部俊雄大佐)所属の駆逐艦「大潮」「朝潮」「満潮」と合同してバリ島攻略部隊を編成、マカッサル泊地を出港した。夕刻、駆逐艦「荒潮」が敵潜水艦掃討の為、先行してバリ島沖に進出した。18日夜、バリ島攻略部隊(駆逐艦「大潮」「朝潮」「満潮」・輸送船「相模丸」「笹子丸」)は、「荒潮」(第八駆逐隊)と合同し、バリ島南東部サヌール泊地に向かった。

2月18日23時50分、ドールマン少将直率のABDA艦隊第1悌団(軽巡2隻・駆逐艦4隻)がジャワ島チラチャップを出撃し、バリ島南東部サヌール泊地沖合いのバドゥン海峡へ向かった。
しかし、チラチャップ出航時にオランダ海軍駆逐艦「コルテノール」は座礁し、出撃不能となった。

輸送船「相模丸」

2月19日00時15分、バリ島攻略部隊はバリ島南東部サヌール泊地に進入し、輸送船「相模丸」「笹子丸」は投錨し、直ちに今村支隊の人員・資材の揚陸を開始した。
上陸地点に於ける連合軍の抵抗は全く無く、19日01時、今村支隊はバリ島に無血上陸を完了した。引き続き内陸に進出した今村支隊は19日未明までにデンパサール飛行場を占領した。今村支隊によるバリ島上陸とデンパサール飛行場の占領は成功し、これによって、ジャワ島の外郭要地(バリ島)を戡定するという当初の目的を達することができた。

連合軍は、哨戒中の英海軍潜水艦「トルーアント」・米海軍潜水艦「シーウルフ」(ワーダー中佐)が日本軍のバリ島攻略部隊を発見、米陸軍航空隊(米陸軍第10哨戒飛行隊)の「B-17」爆撃機が、バリ島南東部サヌール泊地に停泊中の日本軍艦船攻撃の為に発進した。

「バリ島沖海戦」推移(昭和17年2月19日23時30分~40分)

2月19日朝、米軍爆撃機(「B-17」)が飛来し、サヌール泊地に接岸中のバリ島攻略部隊が連続空襲を受けた。この空襲によって輸送船「相模丸」が機関室に被弾して損傷した。19日16時、損傷した輸送船「相模丸」は駆逐艦「荒潮」「満潮」に護衛されてサヌール泊地を出航し、セレベス島マカッサル泊地へ向かった。

更に、敵潜水艦の出現も認められた為、サヌール泊地に残る輸送船「笹子丸」は揚陸作業を終了し、セレベス島マカッサル泊地へ退避する準備を進めていた。2月19日23時40分、駆逐艦「大潮」「朝潮」・輸送船「笹子丸」がバリ島サヌール泊地を出航した。

この時(2月19日23時30分頃)、バリ島南東部サヌール泊地沖合い(バドゥン海峡)には、ドールマン少将率いるABDA艦隊の第1悌団(軽巡2隻・駆逐艦3隻)が南方から急速に接近していた。
バドゥン海峡はバリ島とヌサ・ベサール島の間の狭水面であり、ロンボック海峡の中で小さな島々が点在する水域であった。

ドールマン少将は戦闘隊形への展開を下令、軽巡洋艦「デ・ロイテル」を先頭に、軽巡洋艦「ジャワ」が続き、その4950m後方に駆逐艦「ビートハイン」が、更にその4950m後方に駆逐艦「ジョン・D・フォード」「ポープ」が後続し、27ノット/時で進撃していた。

第1次「バリ島沖海戦」(昭和17年2月19日23時53分~20日01時10分)

「バリ島沖海戦」推移(昭和17年2月19日23時50分頃)

昭和17年2月19日23時50分、バリ島サヌール泊地を出航した駆逐艦「朝潮」は、南方1万2000mの洋上に艦影を発見した。この艦影はジャワ島チラチャップを出撃し、バドゥン海峡に南方から進入して北上中のABDA艦隊第1悌団(軽巡2隻・駆逐艦3隻)の軽巡洋艦「デ・ロイテル」「ジャワ」であった。駆逐艦「朝潮」は、艦影を直ちにオランダ海軍ジャワ級軽巡洋艦2隻と判断した。

同じ頃、軽巡洋艦「デ・ロイテル」「ジャワ」もバドゥン海峡に艦影3隻を発見していた。この艦影は、サヌール泊地を出航してバドゥン海峡を北上しようとしていた、駆逐艦「駆逐艦「朝潮」・輸送船「笹子丸」であった。駆逐艦「朝潮」と軽巡洋艦「デ・ロイテル」「ジャワ」は急速に接近した。

「バリ島沖海戦」推移(昭和17年2月20日00時頃)

駆逐艦「朝潮」が艦影(軽巡洋艦2隻)を発見してから約5分後の2月19日23時55分、軽巡洋艦「ジャワ」は距離2000mで駆逐艦「朝潮」に対して砲撃を開始。2月20日00時、これに対して駆逐艦「朝潮」も探照灯による策敵、星弾による照射を行い、応射を開始した。

軽巡洋艦「デ・ロイテル」も砲撃を開始し、駆逐艦「朝潮」と軽巡洋艦「デ・ロイテル」「ジャワ」による同航砲戦が展開された。
この時(2月20日00時)、軽巡洋艦「デ・ロイテル」「ジャワ」に後続していた駆逐艦「ビートハイン」「ジョン・D・フォード」「ポープ」は前方にこの砲戦を視認、更に北西方向に船舶1隻(輸送船「笹子丸」)を発見した。駆逐艦「ビートハイン」「ジョン・D・フォード」「ポープ」は、この船舶1隻(輸送船「笹子丸」)に対して魚雷を発射し、砲撃を行ったが、命中弾は得られなかった。

「バリ島沖海戦」推移(昭和17年2月20日00時05分頃)

駆逐艦「朝潮」はサヌール泊地出航直後で速力が上がらず、2月20日00時02分(砲撃開始の約2分後)、敵艦2隻(軽巡洋艦「デ・ロイテル」「ジャワ」)を見失った。
駆逐艦「朝潮」は、敵艦2隻(軽巡洋艦「デ・ロイテル」「ジャワ」)が南方に反転したものと判断。直ちに増速して南方に向かった。駆逐艦「朝潮」は探照灯に弾片を受けていたが、戦闘行動に支障は無かった。

一方、軽巡洋艦「ジャワ」は艦尾に命中弾1発を受けていたが、大きな損害は無かった。軽巡洋艦「デ・ロイテル」「ジャワ」はそのままバドゥン海峡を北上し、戦場から離脱した。軽巡洋艦「デ・ロイテル」「ジャワ」の後方からは駆逐艦「ビートハイン」「ジョン・D・フォード」「ポープ」が北上していた。

この時(2月20日00時頃)、駆逐艦「大潮」は、駆逐艦「朝潮」の北方約2700mにおり、駆逐艦「朝潮」の交戦を知って砲戦に参加すべく航進をしたが間にあわなかった。
しかし、駆逐艦「大潮」は南方の距離約6000mに駆逐艦らしき艦影1隻(駆逐艦「ビートハイン」)を視認、2月20日00時05分、距離1500mに接近して砲撃を開始した。

この時、駆逐艦「ビートハイン」も敵艦2隻(駆逐艦「朝潮」「大潮」)を視認、接近すると砲撃を開した。更に、2月20日00時05分、右舷に回頭すると敵艦1隻(駆逐艦「朝潮」)に魚雷2発を発射し、砲撃を開始した。その後、煙幕を展張しつつジグザグ航行を行いながら敵艦1隻(駆逐艦「朝潮」)から離脱を開始した。この魚雷は駆逐艦「朝潮」には命中しなかった。

「バリ島沖海戦」推移(昭和17年2月20日00時05分~16分)

駆逐艦「ビートハイン」の4950m後方には駆逐艦「ジョン・D・フォード」「ポープ」が後続していた。2月20日00時05分、駆逐艦「ビートハイン」の右舷への回頭を視認すると、後続する為、駆逐艦「ジョン・D・フォード」「ポープ」は右舷へ回頭したが、煙幕によって視界不良となった。駆逐艦「ジョン・D・フォード」「ポープ」は煙幕の中を29ノット/時で前進した。

駆逐艦「朝潮」が艦影1隻(駆逐艦「ビートハイン」)の追跡を開始したところ、南方に別の駆逐艦2隻(駆逐艦「ジョン・D・フォード」「ポープ」)を発見した。駆逐艦「朝潮」はこの駆逐艦2隻を一応放置したまま、先の敵艦1隻(駆逐艦「ビートハイン」)を追跡した。
駆逐艦「朝潮」は、2月20日00時10分、敵艦1隻(駆逐艦「ビートハイン」)の距離900mまで接近し、砲撃と機銃掃射を行い、更に接近して魚雷を発射した。
駆逐艦「朝潮」が魚雷発射の為に回頭している間に、駆逐艦「大潮」は駆逐艦「朝潮」の左舷前方に出ていた。

駆逐艦「ビートハイン」には、砲弾2発が命中した。1発は第2マスト基部に、もう1発は第2ボイラー室に命中し、駆逐艦「ビートハイン」は機関停止し、この時25mm機銃弾多数が命中した。
2月20日00時16分、駆逐艦「ビートハイン」に、駆逐艦「朝潮」の魚雷1本が命中し、駆逐艦「ビートハイン」は撃沈された。

駆逐艦1隻(駆逐艦「ビートハイン」)撃沈を確認後、駆逐艦「朝潮」「大潮」は、先に視認した敵艦(駆逐艦2隻)を探して南下した。数分後、右舷2000mに同航する駆逐艦2隻(駆逐艦「ジョン・D・フォード」「ポープ」)を認め、直ちに砲撃を開始、敵艦(駆逐艦2隻)は応戦しつつ煙幕を展張しながら逃走した。

駆逐艦「朝潮」「大潮」はこの敵艦(駆逐艦2隻)を探して北上、20日00時45分、左前方3海里付近に、再び駆逐艦2隻(駆逐艦「ジョン・D・フォード」「ポープ」)を発見した。ただちに砲撃を加え、この敵艦2隻を撃沈したと判断したが、実際は、この駆逐艦2隻(駆逐艦「ジョン・D・フォード」「ポープ」)は南東方向に離脱していた。

その後、駆逐艦「朝潮」「大潮」は北上した。20日01時40分頃、サヌール沖に戻った駆逐艦「朝潮」「大潮」は、サヌール泊地東方のロンボック海峡中央水道に於いて東西に哨戒を行った。

この時、2月19日朝の空襲で損傷した輸送船「相模丸」は、舟艇の収容作業を終え、セレベス島マカッサル泊地に向けて北上していた。輸送船「相模丸」を護衛して、19日夕刻にサヌール泊地を出航してマカッサル泊地に向かっていた駆逐艦「満潮」「荒潮」は、バドゥン海峡に於ける海戦の報を受け、20日01時45分、反転南下してロンボック海峡に向かった。

第2次「バリ島沖海戦」(昭和17年2月20日03時10分~23分)

「バリ島沖海戦」推移(昭和17年2月20日01時40分~03時)

2月20日03時05分、ABDA艦隊第2悌団(オランダ海軍軽巡「トロンプ」・米海軍駆逐艦「スチュワート」「パロット」「ジョン・D・エドワース」「ビルスベリ」)がバドゥン海峡に到着した。
20日03時06分、25ノット/時でバドゥン海峡を北上していたABDA艦隊第2悌団は、魚雷による先制攻撃を開始。駆逐艦「スチュワート」「パロット」がそれぞれ魚雷6本を、駆逐艦「ビルスベリ」が魚雷3本をサヌール泊地に向けて発射したが、命中しなかった。

サヌール泊地沖合い(バドゥン海峡西部)で哨戒中の駆逐艦「朝潮」「大潮」は、2月20日03時10分、再び南方から高速で北上してくる巡洋艦2隻・駆逐艦1隻(実際は、軽巡1隻・駆逐艦4隻から成るABDA艦隊第2悌団の一部)を発見した。
駆逐艦「朝潮」「大潮」は直ちにこの敵艦に突撃を開始した。

駆逐艦「スチュワート」「ジョン・D・エドワース」は、左舷前方から突撃してくる駆逐艦「朝潮」「大潮」に対して魚雷を発射し、2月20日03時13分、砲撃を開始した。この時、駆逐艦「ジョン・D・エドワース」の魚雷2本が故障で発射できなかった。

「バリ島沖海戦」推移(昭和17年2月20日03時10分~23分)

駆逐艦「朝潮」「大潮」も敵艦発見の、5分後(2月20日03時15分)、距離3200mで砲雷戦を開始した。

2月20日03時16分、駆逐艦「スチュワート」に砲弾1発が命中、1名が戦死し、操舵室に浸水したが、戦闘行動に支障は無かった。この後、駆逐艦「スチュワート」は右舷に回頭、後続の他艦もこれに続いた。この時、駆逐艦「ビルスベリ」が駆逐艦「パロット」と接触し、陣形から更に右に外れた。

この砲雷撃戦に於いて、双方に命中魚雷は無かったが、駆逐艦「大潮」は艦橋付近に被弾し、戦死11名(艦橋要員)の被害を受け、軽巡洋艦「トロンプ」は命中弾11発を受けて小破していた。

2月20日03時23分、駆逐艦「朝潮」「大潮」は水中爆発音を聞き、敵艦に魚雷命中と判断したが、敵艦がバリ島の陰に隠れた為、それ以後の情況は不明となった。

この時、先に輸送船「相模丸」と分かれ、反転南下していた駆逐艦「満潮」「荒潮」がロンボック海峡からバドゥン海峡に進入しつつあった。
2月20日03時15分頃、駆逐艦「満潮」「荒潮」から、左舷前方に砲戦の閃光が認められた。これは、駆逐艦「朝潮」「大潮」とABDA艦隊第2悌団の一部との、バドゥン海峡に於ける砲戦の閃光であった。

第3次「バリ島沖海戦」(昭和17年2月20日午前3時37分~46分)

駆逐艦「満潮」「荒潮」は更に南下を続け、バドゥン海峡に到着した。
突然、右舷前方のバリ島の陰から敵艦2隻が反航してくるのを発見した。この敵艦2隻は、米海軍駆逐艦「スチュワート」「ジョン・D・エドワース」であった。午前3時37分、距離3500mで砲戦が開始された。砲戦開始約2分後(午前3時40分頃)、駆逐艦「満潮」は、機械室に命中弾を受けて罐が損傷、蒸気が奔騰して航行不能に陥った。
駆逐艦「満潮」「荒潮」は、敵一番艦(米海軍駆逐艦「スチュワート」)を沈没と判断したが、実際は砲弾数発が命中して小破であった。この敵艦2隻(米海軍駆逐艦「スチュワート」「ジョン・D・エドワース」)は退避していった。

この時、駆逐艦「朝潮」「大潮」は、見失った敵艦を追って、バンダ海を東へ航行、レンボンガン島北西方にさしかかった。20日午前3時40分、駆逐艦「朝潮」「大潮」は左舷方距離3200mに同航するオランダ海軍トロンプ型巡洋艦1隻(オランダ海軍巡洋艦「トロンプ」)を発見、直ちに左舷同航砲雷戦を開始した。敵艦1隻(オランダ海軍軽巡洋艦「トロンプ」)も応戦、数分間、近距離の戦が続いた。魚雷の効果は確認できなかったが、駆逐艦「朝潮」「大潮」は、砲弾多数がこの敵艦に命するのを認めた。
午前3時46分、敵弾1発が駆逐艦「大潮」の二番砲塔付近に命中し、小破した。この敵艦1隻(オランダ海軍軽巡洋艦「トロンプ」)その後も東航を続けた。

駆逐艦「満潮」「荒潮」が、米海軍駆逐艦「スチュワート」「ジョン・D・エドワース」と右砲戦を開始した時(午前3時37分)、左舷距離1600mに駆逐艦1隻が反航してきた。この駆逐艦1隻は砲撃しつつ退避したが、更に、午前3時45分頃、この駆逐艦1隻に続いて巡洋艦1隻が距離3000mで反航してきた。この巡洋艦1隻は、先に(午前3時46分頃)、駆逐艦「朝潮」「大潮」が追跡していたオランダ海軍軽巡洋艦「トロンプ」であった。
駆逐艦「満潮」「荒潮」は、この巡洋艦1隻(オランダ海軍軽巡洋艦「トロンプ」)と反航しつつ、砲戦を開始した。駆逐艦「満潮」「荒潮」は、この巡洋艦1隻(オランダ海軍軽巡洋艦「トロンプ」)に対して命中弾を確認したが、その後見失った。
この時、オランダ海軍軽巡洋艦「トロンプ」は、先の駆逐艦「朝潮」「大潮」との砲戦と、駆逐艦「満潮」「荒潮」との砲戦の果、砲弾数発を受けて中破していた。

第4次「バリ島沖海戦」(昭和17年2月20日午前3時50分~55分)

駆逐艦「満潮」は機械室に被弾しており、それ以外にも数発の命中弾を受けて、機関長以下64名の戦死傷者を出していたが、浸水個所はなく、しばらくの間漂泊して応急処置にあたった。

戦場における戦果には、事実誤認がつきものである。彼我の被害の内実を比べみると、連合軍側は蘭駆逐艦ピートハインが沈没、蘭巡洋艦トロンプが中破、米駆逐艦スチュワートが小破。

スラバヤ沖海戦一方日本軍側は満潮大破、大潮小破の被害を出したにとどまった。巡洋艦三、駆逐艦七隻の連合軍は、わずか駆逐艦四隻(初め直接戦闘に参加したのは二隻)に護衛された輸送船団を撃ちもらすという結果に終わった。日本軍の大勝といっていい戦闘だった。

『満潮』は応急修理後『荒潮』に曳航されて帰還している。 この戦いはABDA艦隊の欠点を浮き彫りした海戦であった。 国籍の違う艦隊を、しかも2隊に分けて運用した為指揮系統が統一できず、結局少数の日本艦隊に苦戦を強いられることとなったのである。数の上で言えば圧倒的であったにも関わらずである。 しかし当時の連合国側にこの欠点を改善・修正していく余裕はなかった。