インドネシアは東南アジアの南部、赤道付近に位置する共和制の国である。国土は約192万平方キロメートルで日本の約5倍である。大小1万8千以上もの島からなる島嶼国家であり、人口は約2億3千万人である。大多数がマレー系であるが、約300の民族が暮らしている。人口は半数以上が首都ジャカルタのあるジャワ島に集中しており、スマトラ島、カリマンタン島(ボルネオ島)、スラウェシ島(セレベス島)は面積は大きいが人口希薄地帯である。
インドネシアは天然資源に恵まれており、金、スズ、石油、石炭、天然ガス、銅、ニッケルの採掘量が多い。大東亜戦争において、石油資源をほとんど持たなかった日本にとって、インドネシア(蘭印・オランダ領インドネシア)の石油資源は南方進出の大きな動機となった。
インドネシアに初めてヨーロッパ人が到達したのは16世紀末のことである。ヨーロッパ諸国は香辛料を求めてインドネシアに進出してきたが、オランダは特にインドネシアに国力を注ぎ、他勢力をインドネシアから駆逐してオランダ東インド会社を設立した。東インド会社はオランダから強力な権限を与えられていたが、あくまでも「株式会社」であり、当初の興味は通商のための「点と線」の支配であった。しかし、18世紀後半から本国オランダ政府は経営の悪化したオランダ東インド会社を引き継ぎ「面」への支配へと転換し、1800年にはインドネシアのほぼ全域を支配するに至った。
しかしながら、オランダがより進んだ文明と武器を持っていたとはいえ、どのようにして本国の数十倍の面積と人口を持つインドネシアを支配したのであろうか。
オランダは王国内の内紛や王国間の争いに巧妙に介入し、御しやすいところに肩入れして影響力を拡大した。支配を確立したところには他の地域から連れてきたインドネシア人を蘭印軍の最下層の兵士とし、中間層に華僑、インド系、混血を挟んで間接統治した。住民の不満が直接オランダ人に向かないようにしたのである。
また、インドネシア人勢力同士が連携しないように、徹底的に分裂離間を策した。さらに、オランダはインドネシア支配のために愚民政策を取り、三年間の初等教育で学校に通えたのは僅か数%(資料によっては1%以下)、中等、高等教育についてはほぼ皆無であった。インドネシア人の政治・行政への参加は禁止されていた。
オランダは植民地支配でコーヒーや茶などの商品作物を強制的に栽培させて本国に輸出した。これによって食料自給体制が崩れて餓死者が続出し、平均寿命は35歳にまで低下した。その上、オランダはインドネシアで重税を課し、貿易と合わせて得た利益は国家予算の3分の1に達した。
日本軍が蘭印からオランダを駆逐すると、日本はインドネシアに独立を約束し、スカルノやハッタなどのオランダに投獄されていた民族主義者達を解放した。教育普及にも力を入れ、日本語とともにインドネシア共通語としてのインドネシア語を教えた。これは民族間の分離政策を敷いたオランダの方針と大きく異なり、民族意識の向上に大きく寄与した。また、日本はインドネシア人に軍事教練を施し、郷土防衛義勇軍(PETA)を設立した。PETAはインドネシア人兵士だけでなく、将校もインドネシア人から養成した自前の民族軍であった。
日本軍による軍政は功罪がある。経済面では大東亜共栄圏に組み込まれて欧米諸国とのつながりを絶たれ、米軍潜水艦による周辺諸国との物資流通の切断によって住民の生活は困窮した。また、労働力の不足を補うため、住民はインドネシア国内外で半ば強制的な労働に従事した。文化面では、皇民化政策によって、日本語、日本文化が強要された。
独立の約束を果たせぬまま大東亜戦争が日本の敗戦で終わると、オランダがインドネシアに再進駐してきた。しかし、インドネシアの民族主義者達はPETAを中心として独立戦争を戦って独立を勝ち取った。日本に引き揚げずにインドネシア人と共に戦った日本軍将校・兵士の数は数千人に上った。