台湾は沖縄本島から南西に約700km、日本の最西端与那国島からは西へわずか約100kmに位置する。中国大陸からは台湾海峡を挟んで約200km離れている。面積は約3万6000平方km、人口は2311万人である(2009年)。九州と比べると、面積は九州島とほぼ同じであり、人口は九州7県合計1318万人と比べて2倍弱である。
17世紀頃からオランダ人が台湾に進出し、オランダ東インド会社を設立して台湾を統治していた。一方、中国大陸では1644年に明朝が滅ぼされ清朝が成立した。明朝の軍人であった鄭成功は台湾のオランダ勢力を駆逐し、台湾を清朝への反攻拠点として統治した。しかし、1683年に清朝による反清勢力の討伐を受け、鄭一族による統治はわずか23年で終了した。
反清勢力の討伐という目的を達成した清朝は、その後台湾にあまり興味を持たず統治には消極的であった。19世紀頃になると中国大陸から漢民族が台湾に流入し始め、移民が主導する形で開発が進み、台湾原住民との混血も進んでいった。
明治28年(1895年)日清戦争が日本の勝利で終わると、下関条約によって台湾は日本に割譲された。割譲に反対する漢人が台湾民主国の独立を宣言し、日本軍と交戦状態となった。しかし、日本軍との戦力差は大きく、明治29年(1886年)には台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立した。
工業を内地、農業を台湾で分担する政策が取られ、鉄道の整備や水利事業により、農業生産は飛躍的に向上した。教育制度の整備にも力を入れ、特に同化政策によって日本語の教育が重視された。
一方、軍部は台湾を南方進出を狙う拠点として整備した。台湾南部には当時最強と言われた台南航空隊、高雄航空隊が配備され、開戦と同時にマニラを空襲し、米比軍の航空戦力を壊滅させ、フィリピン諸島占領に大きく貢献した。前半は日本軍優勢で推移した大東亜戦争であったが、昭和18年(1943年)頃から米軍の反攻が始まりフィリピン諸島が米軍に奪還された。しかし、米軍は台湾を飛ばして沖縄を狙ったため、台湾は米軍機による空襲を受けたが、上陸戦が発生することなく終戦を迎えた。昭和20年(1945年)、日本が連合国に降伏すると、GHQの委託に基づいて国民党(南京国民政府)が戦勝国の一員として日本軍の武装解除のため台湾に上陸した。
戦争中は国民党と共産党は日本軍に対抗して国共合作で共闘関係を築いていたが、共通の敵を失った両党は1946年6月に内戦を再開した。当初はアメリカの援助を受けていた国民党が国土の大半を掌握したが、共産党はソ連の援助を受けて農村部を中心に勢力を盛り返し、最終的には北京、南京、上海などの主要都市を占領して1949年に中華人民共和国を成立させた。国民党は遷都という形で200万人にも上る人々が台湾に逃れ、現在に至るまで台湾を実効支配している。
1979年にアメリカが中華人民共和国を「中国の代表権を持つ正当政府」として承認すると、多くの国がこれに同調した。よって現在、台湾を承認している国は少なく、日本とも正式な国交はない。しかし、主要国は非政府組織を通じて外交業務を行っており、実質的には国交がある状態となっている。
日本はサンフランシスコ平和条約と日華平和条約で台湾の領有権を放棄したが、国民党(現中華民国・台湾)か共産党(現中華人民共和国・中国)のどちらへ返還するのかを明記していなかった。そのため、現在も台湾を実効支配する中華民国と中華人民共和国の双方が台湾に対する権利を主張している。
台湾の人種構成は98%が漢民族で残り2%が日本統治期に高砂族と呼ばれた台湾原住民である。98%の漢民族は17世紀以降の移民の子孫である本省人が85%、第二次世界大戦後に台湾に逃れた国民党と共にきた外省人が13%に分かれる。本省人は「台湾と中国は別」という意識が強く、外省人や外省人の2世、3世は「台湾は中国の一部」という意識が強い。
選挙などになると国家像の違いから対立することもあるが、現在の台湾人で中国との統一を望む人はほとんどいない。外省人の中でも台湾で生まれ育った世代は「台湾人意識」の強い人も増えている。台湾は経済的な繁栄に成功しており、一人当たりGNPがまだまだ低い中国との統一は生活水準を下げ、政治的な自由が失われることを危惧しているのである。