大東亜戦争におけるトラック諸島(チューク諸島)の歴史

トラック諸島(Truk Islands)は日本の南南東約3300km、マリアナ諸島の南東約1000kmにあり、周囲約200kmの珊瑚礁に囲まれた約250の島から構成される世界最大級の堡礁である。トラック環礁と呼ばれる事もあるが、正確には環礁(Atoll)では無く堡礁(Barrier Reef)である。英語ではTruk Lagoonと表記されることもある。また、トラック島と呼ばれる事もあったが、トラック島という名称の島は無く、環礁内の島の総称である。
現在はチューク諸島(Chuuk Islands)と呼ばれており、ミクロネシア連邦(Federated States of Micronesia:FSM)のチューク州(Chuuk State)となっている。チューク州は人口約54000人・総面積88平方km、州都はウエノ島(Ueno Island)である。尚、ウエノ島(Ueno Island)はモエン島(Moen Island)とも呼ばれる。

トラック諸島では、紀元前からソロモン諸島やビスマルク諸島から渡って来た人々が居住していたが、15世紀頃にはスペイン人が渡航し始め、マリアナ諸島やカロリン諸島を植民地として領有化、トラック諸島もスペインの統治下に入った。19世紀に入るとアメリカやドイツが太平洋に進出、そして明治31年(1898年)の米西戦争の結果、スペインはこれら太平洋の植民地を失った。トラック諸島もドイツに売却されてその統治下に入った。
大正8年(1919年)、日本は第一次世界大戦の戦勝国として、国際連盟からドイツ領ミクロネシア(パラオ諸島・マリアナ諸島・カロリン諸島・マーシャル諸島)の統治権を認められた。そして、委任統治領南洋群島として南洋庁を設置、トラック諸島も日本の統治下に入った。トラック諸島では、日本の委任統治領になる以前から日本人実業家が水産業や貿易を営んでいたが、日本統治下になると更に多くの日本人が渡航して事業を展開するようになった。

日本統治時代、トラック諸島の島々には日本風の名前がつけられた。環礁東側の主要な4島は、春島(モエン島)・夏島(デュブロン島)・秋島(フェファン島)冬島(ウマン島)と名付けられ、これらを四季諸島と呼んだ。また、環礁西側には最大の島である水曜島(トル島)を中心に日曜島から土曜島まであり、七曜諸島と呼ばれた。当時の中心地は夏島で、「南洋庁トラック支庁」や「南洋庁トラック医院」が置かれ、南洋貿易や南洋興発水産など日本の南洋開発に於ける主要な企業が進出していた。最盛期には約85000人の日本人が生活していた。

トラック諸島は戦略的にも重要な場所であった。周囲を珊瑚礁に囲まれた環礁は海が穏やかであり、敵潜水艦の侵入も困難である為に艦船・船舶の泊地として最適であった。委任統治領であった為に軍事施設の建設は禁止されていたが、昭和8年(1933年)に日本が国際連盟から脱退すると、トラック諸島は日本海軍の重要な泊地として整備されていった。特に、アメリカとの関係が悪化した昭和16年(1941年)以降、飛行場や砲台などが次々と建設され、やがて内南洋最大の海軍根拠地となっていった。

大東亜戦争開戦後もトラック諸島は連合艦隊の重要な補給基地であった。また、その広大な環礁内では航空母艦が全速航行して発着艦訓練をする事も可能であった。日本本土からは次々と航空機や軍需物資運び込まれ、ソロモン諸島や東部ニューギニアでの航空戦に於ける策源地となった。しかし、昭和18年(1943年)以降、米軍が反攻が本格化、日本軍は後退の一途を辿り、トラック諸島も次第に最前線となっていった。

そして、昭和19年(1944年)2月17日、トラック諸島は米海軍の大規模な空襲を受けた。空襲は17日・18日の2日間に渡り、延べ1200機の米軍艦載機が来襲した。この時、連合艦隊主力は直前にパラオ諸島へ移動していた為に難を逃れたが、環礁内には多数の船舶や一部の艦艇が残留していた。この空襲によって、艦艇10隻・船舶33隻が沈没、所在の航空機270機が失われた。特にラバウル方面への補充機200機は殆どが地上で撃破された。また、備蓄していた燃料・弾薬・食料も大量に失われた。結果、トラック諸島は海軍根拠地としての機能を事実上喪失した。

その後、昭和19年(1944年)8月にマリアナ諸島が米軍に占領され、トラック諸島は敵中に孤立した。米軍による上陸作戦が行われる事は無かったが断続的な空襲が続けられた。更に、日本本土からの補給も途絶、残存の日本軍部隊や一般邦人は終戦まで自給自足の生活を強いられる事になった。

昭和20年(1945年)の大東亜戦争終戦後、トラック諸島には米軍が進駐、ミクロネシアはアメリカの信託統治領となった。そして、昭和61年(1986年)11月3日、トラック諸島・ポナペ島・ヤップ島・コスラエ島がミクロネシア連邦として独立、トラック諸島もミクロネシア連邦チューク州となった。併しながら、州政府の権限が充分に及ばず、公共施設・交通網の整備や産業の発展が著しく遅れた。結果、住民の多くは現金収入が無く、一部の有力者のみが富を独占するいびつな社会構造のまま現在に至っている。そして、環礁内の島々には日本統治時代の遺構や海軍の基地施設が多数遺されているが、殆ど維持管理されることも無くジャングルの中に埋もれたままである。

公用語は英語であるが、チューク人の多くは現地語(チューク語)を使用している。
ウエノ島(春島)の街中やホテルではほぼ英語が通じるが、郊外やそれ以外の島では英語が通じない事がある。尚、チューク人の英語は多少のなまりがあり、「D」で発音するところが「T」の発音になっている場合がある。
また、日本統治時代に入ってきた日本語が一部定着しており、「飛行場(ひこうじょう)」「滑走路(かっそうろ)」「防空壕(ぼうくうごう)」「大砲(たいほう)」「桟橋(さんばし)」「写真(しゃしん)」「電気(でんき)」といった単語はそのまま通じる。