日本軍装備品他
「零式艦上戦闘機(零戦)」の増槽(ドロップタンク)である。増槽とは機外に追加で取り付ける燃料タンクであり、空戦時には切り離すことによって重量や空気抵抗を減らすことによって機動力を上げることができた。増槽には330Lの容量があり(零戦21型)、航続距離を1100kmほど伸ばすことができた。資源不足に陥った戦争後期には木製のタンクも作られた。
この増槽はダーウィンの南約80kmで発見されたものである。ダーウィン空襲の際、レーダーを避けるために迂回して南から回りこんだときに切り離されたものと考えられている。
中央の箱は機内搭載用の用具箱である。説明板によると、プロペラの部品を入れるもののようである。左側のものは野戦電話である。
説明板では「日本軍搭乗員眼鏡ケース」と書かれているが、ケースには「大注射器 50cc」と彫られている。確かに眼鏡ケースに見えるので、博物館の人が間違えたのであろう。
日本画である。カリマンタン島(ボルネオ島)のバリクパパンで発見されたもののようである。
陸軍陸上戦闘機「三式戦闘機(飛燕)」である。ニューギニア島のウエワクの南で撮影されたものである。「飛燕」は実戦投入された日本軍戦闘機の中で唯一液冷エンジンを装備していた。
スピットファイア
イギリス・スーパーマリン社の陸上戦闘機「スピットファイア」である。当時工業力の小さかったオーストラリアはイギリスに航空機の供給を頼っており、「スピットファイア」は昭和18年(1943年)1月からオーストラリア北部へ配備が開始された。
欧州戦線で高速なドイツ軍戦闘機に対して旋回性を生かした格闘戦で戦果を上げた経験から、より旋回性の高い「零式艦上戦闘機(零戦)」に対しても格闘戦を挑んで大損害を出した。また、欧州とことなる気候やイギリスから遠く部品供給が十分でなかったことも「スピットファイア」が苦戦した原因であった。
機首左側にノーズアートが描かれている。日本軍はノーズアートを不真面目なもの、と考えていたようで少数の例を除き日本軍機には見られないが、欧米では部隊の士気を上げるために軍は事実上の黙認状態であったようである。
このノーズアートはエクスクァイアという昭和8年(1933年)にアメリカ・シカゴで創刊された男性誌に付属していた昭和18年(1943年)8月のカレンダーの図柄をコピーしたものである。この女性の絵は多くの飛行機に描かれた。
ランカスターの機銃座
イギリスのアブロ社の陸上爆撃機「ランカスター」の機銃座である。この機銃座は機首のものである。
四発重爆撃機の「ランカスター」の爆弾搭載量は最大10000kg、標準6400kg(B.Ⅰ型)であった。主に夜間爆撃に投入された。模型である。
B.Ⅰ型では「7.7mmブローニング機関銃」を機首と背部に連装1挺、尾部に4連装1挺の計8挺を装備していた。
機銃座内部である。
バトル
博物館にはレストア工場が併設されている。アメリカやオーストラリアの航空博物館にはこのようなレストア工場が併設されたところが多い。また、博物館同士でレストアした飛行機やレストア前の残骸を売買することも多いようである。
レストアは当時の資料から起こされた設計図に基づいて行われるようである。失われてしまった部分は一から作り直し、残骸はきれいに補強してできるだけ組み込んでいく、という方式のようである。
2011年、イギリスのフェアリー社の軽爆撃機「バトル」がレストア中であった。
昭和11年(1936年)に初飛行した「バトル」は英空軍初の近代的な爆撃機だったが、第二次大戦開戦時には既に旧式化していた。昭和15年(1940年)後半からは前線から退き、その後は練習機や標的曳航機として使用された。