大東亜戦争におけるシンガポール(街)の歴史

シンガポールはマレー半島先端に浮かぶシンガポール島とその周辺諸島からなる共和制の都市国家である。面積総計は707.1平方kmであり、奄美大島や琵琶湖とほぼ同じ大きさである。この小さな島に約473万人の人口を擁し、人口密度は6489人/平方kmでモナコ公国に次いで世界第二位である(2008年)。マレー半島とはジョホール水道中央部でコーズウェイと呼ばれる橋で結ばれており、道路、歩道、鉄道が通っている。コーズウェイとは「長堤」を意味し、埋め立てて作られている。ある意味、シンガポール島とマレー半島は「陸続き」なのである。また、平成10年(1998年)には、島の西側にも橋が完成した。

民族構成の大多数を占めるのが中華系の76%である。次いでマレー系14%、インド系8%と多民族国家である。中華系やインド系はイギリスが人口の少なかったマレーシア・シンガポールの開発を進めるために労働者として移民を進めたのが現在の人種構成の元となっている。

赤道直下に位置するシンガポールは熱帯雨林気候に分類され、一年中高温多湿である。雨は比較的多いが、高低差に乏しい狭い国土に多くの人口を抱えているため、水の供給に苦労しているようである。島内には多数の貯水池があり、隣国マレーシアからはコーズウェイに設置されたパイプラインで原水を輸入している。

文政2年(1819年)、イギリス東インド会社の書記官トーマス・ラッフルズがシンガポールに上陸したとき、シンガポールには人口150人の寂れた漁村しかなかった。しかし、ラッフルズはシンガポールの地理的重要性、つまり中国、そしてイギリス植民地のインドやオーストラリアを結ぶ航路となるマラッカ海峡に位置するということに気づいていたのである。

イギリスはシンガポールを無関税の自由港として開発を進め、街は急速に発展していった。港は茶やアヘンの貿易中継地点となり、マレー半島で産出された錫や天然ゴムが積み出された。

大正12年(1923年)に日英同盟が破棄されると、イギリス議会はシンガポールの要塞強化と主力艦隊を収容できる軍港の整備を決定した。シンガポールは蘭印の資源地帯の手前に位置しており、日本の対英米関係が悪化するにつれ、日増しに日本軍のシンガポールの侵攻の可能性が現実味を増していたのである。イギリスは15万人を越える兵力を駐留させ、要塞には戦艦の主砲並みの15インチ(38cm)砲を始め多数の重砲とトーチカが設置された。また、戦艦2隻を含むイギリス東洋艦隊の派遣が決定された。シンガポールは「東洋のジブラルタル」と称され、海上からは難攻不落と思われた。

昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争勃発と同時に日本軍はマレー半島に上陸を行った。要塞化されたシンガポールへの直接の上陸を避け、マレー半島から陸路でシンガポール攻略を狙ったのである。日本軍は各地で連戦連勝を重ね、上陸から55日でマレー半島先端のジョホールバルに到達した。続いてジョホール水道を渡った日本軍は1週間の戦闘ののち英軍を降伏させた。

昭和20年(1945年)8月、終戦とともに戻ってきた英軍によりシンガポールの植民地支配は続けられた。しかし、大戦でダメージを負ったイギリスに独立運動を抑えこむ力はなく、昭和32年(1957年)にイギリスからマラヤ連邦が独立した。昭和38年(1963年)にマラヤ連邦にボルネオ島のサバ・サラワク両州を加えてマレーシア連邦が結成され、昭和33年(1965年)にマレーシア連邦からシンガポールが独立した。

独立後は関税廃止を背景とした積極的な外資導入により、製造業が発展した。1980年代からは金融・ビジネスサービス業が大きく成長し、製造業と並んで経済を支える両輪となっている。国土が狭く第一次産業はほとんど行われておらず、輸出対GDP比率が206%と外需依存型である(2006年、日本は15%)。平成19年(2007年)には一人当たりGDPは3.5万ドルに達し、日本を抜いてアジアでトップとなった。平成22年(2010年)現在もGDP伸び率は5.7%と高成長を維持している。

大東亜戦争遺跡
「大東亜戦争遺跡」について「大東亜戦争全史」と並び、本サイトのメインコンテンツです。日本国内や東アジア・中部太平洋方面には、大東亜戦争に関する遺跡・遺物が多数遺されています。それらは、かつて戦闘が行われた場所であったり、当時の兵器類であった...
大東亜戦争におけるシンガポール(街)の歴史
シンガポール北部・サリンブン海岸・クランジ海岸・クランジ英連邦戦没者墓地 (Kranji Commonwealth War Cemetery)シンガポール中部・フォード自動車工場(OLD FORD FACTORY)シンガポール南西部・パシル...