志林周辺の戦跡一覧
芝山公園
芝山巌事件(しざんがん)で犠牲となった6人の日本人教師が芝山巌学堂を開設し、日本語教育を行っていた場所である。現在は公園となっている。
当時は日本統治に反対する勢力による暴動が頻発しており、周囲の人々は学堂に残っていた教師に避難を勧めていた。しかし、彼らは教育に命をかけていることを示して芝山巌を去ろうとはしなかった。遊歩道沿いに中国語の説明板が設けられている。
明治29年(1896年)1月1日、6人の教師と用務員が元旦の拝賀式へ出席するため芝山巌を下山しようとしたとき約100人の抗日ゲリラに遭遇した。6人はひるむことなく教育の重要性をゲリラに説いたが、受け入れられずに惨殺された。
公園内に「故教育者姓名の碑」がある。
芝山巌神社にはこの6人をはじめ、台湾教育に殉じた人々が1933年までに330人祀られた。 そのうち台湾人教育者は24人であった。
昭和5年(1930年)に彼らの教育に対する情熱を称えて芝山巌神社が創建されたが、大東亜戦争後に日本色を一掃しようとする国民党によって破壊された。公園のもう一つの入口には中華風の門が建てられている。
芝山巌神社本殿跡に建てられたのが、国民党軍統局副局長だった戴笠を記念する「雨農閲覧室」である。現在は芝山巌事件を紹介する中国語のパネルが設置されている。
台湾民主化の動きが進むなかで、彼らの教育に対する情熱が再び見直された。芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学校の卒業生により、殉職した6人の教師を慰霊するため、1995年に「六氏先生の墓」が再建された。
雨農閲覧室の手前左側は「学務官僚遭難の碑」がある。元々は明治29年(1896年)に建てられたものであるが、現在のものは2000年に復元されたものである。
「故教育者姓名の碑」の前は雑草の生い茂る庭のようなスペースがあり、ここに芝山巌事件碑記という石碑が転がされている。国民党時代に破壊されたものがそのまま残されているのだろうか。
最年長は楫取道明38歳で禁門の変で戦士した長州藩士、久坂玄瑞の甥であった。また、最年少の平井数馬はまだ享年17歳の若さであった。
「芝山公園」の歩き方
MRT淡水線芝山駅下車。福國路を東(忠誠公園方面)へ300mほど行くと、中山北路五段につきあたるT字路になるので、ここを右折して南へ。T字路から中山北路五段は200mほどで高架の橋になるが、この橋を渡らずに手前の至誠路二段を左折する。
至誠路二段を500mほど進むと、立派な石段の芝山巌の正面入り口が見えてくる。
こちらからでも行けるが、正面入り口から至誠路二段をさらに300mほど進んだ左手にある細い石段を登った方が記念碑群には近い。
剣潭公園
明治34年(1901年)に台湾の総鎮守として剣潭山に台湾神社が創建された。しかし、終戦後すぐに台湾にある全ての神社は廃止された。台湾神社跡地は現在圓山大飯店という大きなホテルになっている。
圓山大飯店の西側の中山北路四段沿いに剣潭公園の入り口がある。
入り口は石段となっており、登ったところの両側には狛犬が設置されている。
台湾神社の狛犬もは神社の廃止とともに行方不明となっていたが、発見されてここに移設された。
左右の狛犬は良く似ているが、右側のものは口が開いており、微妙に表情が異なる。
また、剣潭公園の石段を入った左手に丘に登る階段がある。ここを5分ほど登ったところにコンクリート造りの箱がある。
内部は数人が入れるほどの広さであり、正面はペンキ等で落書きされているようである。背後にはこのコンクリート造りの箱への入り口がある。銃眼の開いたトーチカらしきものにも見えるが、説明の看板もなく詳細不明である。
「剣潭公園」の歩き方
MRT淡水線剣潭駅下車。剣潭駅の東側(丘の見える方)に中山北路五段という大通りが通っている。この大通りを南へ(右手)300mほど進んだ左手が公園入り口である。
公園の奥に剣潭へと続く山道があり、ここをしばらく登ったところにトーチカらしきものがある。
忠烈祠
ここには台湾が過去に経験した戦争における戦死者約33万人が祀られている。本殿は北京紫禁城の大和殿を模したものである。日本軍に動員された台湾人約20万人のうちでは、約3万人が戦死した。
本殿脇に2名、正面脇に2名の計四人の「儀仗兵」が不動直立して警備している。彼らは一時間おきに交代の儀式を行う。銃を肩にかけ、一糸乱れぬ動きで石畳を行進する。儀仗兵が高く上げた足で地面を踏みしめるたびに、軍靴の金属音が響き渡る様は見所である。
「忠烈祠」の歩き方
剣潭公園から中山北路五段をさらに南に500mほど進むと圓山大飯店の正面あたりで左手(東方向)に北安路が分岐していく。
北安路を1kmほど行った左手に忠烈祠の正門がある。
圓山大飯店はこの公園の背後の丘の上に見える、金色と赤色の派手な建物である。