大東亜戦争におけるアメリカ本土の歴史

アメリカ合衆国(United States of America・アメリカ・米国)は、北米(北アメリカ)大陸の過半と太平洋上の島嶼の一部を領土とし、50州とそれ以外の地域から成る国家である。
主要な領土は北米大陸中央部のアメリカ本土(Continental United States)である。国土面積は、962.8万平方km で日本(37.8万平方km)の約25倍、ロシア、カナダに次いで中国とほぼ同じで世界第3位又は第4位である。人口は3億914万人(2010年)で第3位である。首都はワシントンD.C。

延徳4年(1492年)、スペインを出航したクリストファー・コロンブス一向がカリブ海沿岸に到達、その後、イタリアのアメリゴ・ベスプッチの調査によって、ヨーロッパ人にとって新しい大陸とされた。アメリカ大陸の名称はアメリゴの名前に由来する。これ以降、ヨーロッパ人による入植が開始され、北米大陸には主としてイギリス・フランスからの入植が行われた。同時に、これは先住民(インディアン)への略奪と虐殺の始まりでもあった。
18世紀には、北米大陸の東海岸の大部分はイギリスの植民地となっていたが、この頃になると植民地住民による自治の機運が高まり、宗主国イギリスとの間で対立が深まっていった。遂に、安永4年(1775年)、北米大陸イギリス植民地と宗主国イギリスとの間にアメリカ独立戦争が勃発した。安永5年(1776年)7月4日、アメリカ独立宣言が行われ、今日もこの日はアメリカ合衆国の建国記念日(Independence Day)とされている。

アメリカは独立当時は東海岸の13州で構成されていたが、その後は西部への開拓やメキシコやスペインとの戦争を経て領土を拡大、大規模な内戦であった南北戦争を経て、19世紀後半には現在のアメリカ本土が形成された。
20世紀に入ると、アメリカは世界有数の強国として海外進出を開始するようになった。フィリピン諸島を植民地として平定し、大正6年(1917年)には第一次世界大戦に参戦し、ヨーロッパ大陸に派兵した。また、大規模に発展した工業力によって世界有数の軍事力を持つまでになっていた。

やがて、太平洋を越えて東アジアへの進出を目差すアメリカと、同じく東アジアで急速な発展を遂げていた日本との対立が目立つようになってきた。アメリカ本土でも日本人移民への排斥運動が起き、日本でも反米機運が高まっていた。昭和6年(1931年)の満州事変、昭和12年(1937年)の支那事変の後、日本とアメリカは急速に対立を深め、昭和16年(1941年)7月の日本軍の南部仏印(ベトナム)を契機として、アメリカは日本への石油全面禁輸措置を発動した。これは、当時、ヨーロッパで勃発していた第二次世界大戦にアメリカが参戦し、枢軸国に宣戦布告する為、日本を戦争へと引きずり込む為の戦略であったと考えられる。

アメリカの石油全面禁輸措置に対し、遂に、日本は自存自衛の為に対米開戦を決意した。昭和16年(1941年)12月8日、ハワイ諸島オアフ島真珠湾を日本海軍航空隊が空襲、同日、日本陸軍もマレー半島に上陸を開始、ここに、3年半に渡る大東亜戦争が開戦した。

当初は日本が優勢であったが、やがて圧倒的な工業力を誇るアメリカの底力が発揮されていった。昭和17年7月から開始されたソロモン諸島ガダルカナル島を巡る攻防を境に戦争の攻守は入れ替わり、当初は欧州戦線に兵力を優先的に振り向けていた米軍 も、次々と新鋭艦艇や新型航空機が竣工するに伴い、昭和18年(1943年)以後、太平洋戦線に本格的反攻を開始した。 米軍は、昭和19年(1944年)8月にマリアナ諸島を占領、10月にフィリピン諸島に上陸した。更に、潜水艦によって船舶を次々と撃沈し日本の物資輸送を締め付けていった。
昭和20年(1945年)に入ると、アメリカは日本への無差別絨毯爆撃を開始した。これは、工場や軍事施設の破壊ではなく、市街地の一般市民の殺戮を目的としていた。特に3月10日未明の東京大空襲では、一晩で10万人近い一般市民を殺害し、それ以降も各地の都市に対して空襲を行い多数の一般市民を殺傷した。そして8月6日と9日、広島と長崎に原子爆弾を投下、30万人近い一般市民を殺害した。これ等、一般市民に対する無差別な空襲に対し、日本を早期に降伏させて戦争を終結させる為であったというのがアメリカの主張であるが、かかる所業は明らかな戦争犯罪といえるだろう。尚、アメリカは今日に至るまで、都市と一般市民に対して核兵器を使用した唯一の国である。

戦後、アメリカは旧ソ連との冷戦を経て、超大国として世界に大きな影響力を行使してきたが、国内には貧困や犯罪などの問題も抱え、価値観の異なるイスラム世界と対立しながら今日に到っている。