中山広場東側の日本統治時代の近代建築

日露戦争と大東亜戦争における大連・旅順の歴史
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「満鉄図書館」

「旧満鉄大連図書館」である。

満鉄が明治40年(1907年)に設立したのが始まりで、この建物は二代目だそうである。 現在は大連図書館日本文献資料館となっている。

「旧満鉄大連図書館」の左側の建物も立派な近代建築のように見えるが、元が何の建物だったか不明である。

「満鉄図書館」の歩き方

大連市の観光の中心である「中山広場」からは魯迅路を東へ。
400mほどいった左手である。道を挟んで反対側には「満鉄本社」がある。

「満鉄本社・満鉄旧跡陳列館」

「旧南満州鉄道株式会社(満鉄)本社ビル」である。(←) 満鉄は明治40年(1907年)に本社が東京から露西亜町の「旧ダーリニー市役所」に移転したが、明治41年(1908年)に竣工したこの建物が2代目本社ビルとなった。

中央奥が本社屋であるが、手狭であったため両側の建物を譲り受けて「別館」とした。現在は大連鉄道有限公司が入っている。

「本社ビル」のすぐ右隣の「別館」である。「別館」は現在「満鉄旧跡陳列館」となっており、観光客も入室して満鉄時代のパネル展示の解説や総裁室の再現などを見ることができる。

正面右手側の別館の前には「満鉄旧址」の石碑がある。小さいので観光客でも気付く人は少ないだろう。

正面の「大連鉄路局分室」のプレートの裏手には満州鉄道の歴史が中国語で刻まれている。

正面右手側の別館の前には「満鉄旧址」の石碑がある。

正面の「大連鉄路局分室」のプレートの裏手には満州鉄道の歴史が中国語で刻まれている。

展示内容詳細一覧

・館内概観
・総裁の執務室
・展示室

「満鉄本社・満鉄旧跡陳列館」の展示内容
「館内概観・総裁の執務室」「南満州鉄道株式会社本館」の右手側の「別館」は、現在「満鉄旧跡陳列館」として内部が観光客に公開されている。天井や階段の内装など、概観と同じく重厚さを感じさせる。満鉄時代の主流の建築様式、内装を感じることのできる観光...

「満鉄本社・満鉄旧跡陳列館」の歩き方

大連市の観光の中心である「中山広場」からは魯迅路を東へ。400mほどいった右手である。 建物の前は駐車場になっており、その前に「大連鉄路局分室」のプレートがある。

「満鉄旧跡陳列館」は右手側の建物である。

常時公開はしておらず、通常は旅行社を通じて団体のツアー形式で観光客を受け入れているようである。 今回営業時間内に行ったが、入口に鍵がかかっていた。特に予約などはしていなかったが、しばらく待っていると職員が出てきて中に案内してくれた。

入場料:50元
休館日:不明
開館時間:08:30-11:30、13:00-16:30
(2010年現在)

「大連満鉄社員倶楽部」

「旧大連満鉄社員倶楽部」である。 満鉄社員の娯楽のために建てた、イギリスのクラブを模した設計の建物である。集会室、バー、柔剣道場などがあった。

現在は大陸橋餐飲娯樂宮というバーのような娯楽施設になっているようである。

正面はネオンなどが取り付けられおり、中国人の観光客相手の商売をやっているように見えるが、裏手側に回ると洋館風の原型が比較的よく分かる。

「大連満鉄社員倶楽部」の歩き方

大連市の観光の中心である「中山広場」からは魯迅路を東へ。 400mほどいった右手に「満鉄本社」がある。

「満鉄本社」を少し超えたところの安陽街を左折し、100mほど行ったところの左手にパブのような建物群がある。
この建物群の中の赤い尖った屋根の建物が「大連満鉄社員倶楽部」である。

「満鉄大連医院」

「旧満鉄大連医院」である。 満鉄大連医院は当初ロシア時代の病院を利用して開業されたが、大正15年(1925年)に竣工したこの建物に移転した。当時の東洋一の総合病院であった。

現在は大連大学付属中山医院となっている。現在も敷地面積9万平方メートル、病床数1200床の大病院である。

外壁は歴史を感じさせるが、内部は改装されてピカピカの近代的な病院である。

病院は複数の棟がつながる形となっており、全体で漢字の「王」という字を歪めたような配置となっている。

裏手には華陀の像がある。
華陀は三国志の時代の伝説の名医であり、曹操の頭痛の治療にあたった、と伝えられている。

病院の最も高いところは6階である。外来患者も受け入れている病院なので、特に観光客が中に入っても止められたりすることはないようである。

5階からの「中山広場」方向の景色である。

「満鉄大連医院」の歩き方

大連市の観光の中心である「中山広場」からは解放街を南東へ300mほど行く。
解放街は右にカーブしていくが、その正面には石段がある。

「旧満鉄大連医院」は石段を登った少し高台になっている場所にある。

「日本人街(南山風情街)」

南山路界隈にも日本人街があり、当時は高級住宅街であった。

明治41年(1908年)に満鉄近江町住宅が建設されたのが始まりで、1920年代に満鉄の社宅や市営住宅が多数建設された。現在は「南山風情街」として洒落たレストランなどが並ぶ通りとして整備されており、観光客が集まる。

南山路の面した住宅である。
日本住宅と思われるが、ピンク色のペンキで塗装されている。大通りに面しているものは保存状態が良いようである。

南山路から一本裏に入った哈爾濱路である。
こちらにも日本住宅が多数残されているが、老朽化が激しいようである。

屋根瓦に煙突があるのがこの時代のスタイルのようである。これらの家屋は特に歴史保存指定も受けておらず、日本人が退去したあとに引き継いだ現地住民によって細々と維持されている。

観光資源としても是非今後も保存してもらいたいものである。

「日本人街(南山風情街)」の歩き方

「中山広場」からは解放街を南へ。

1kmほどのところの七七街を右折する。右折したところから300mほどのところが七七広場である。ここを南山街へと右折し、100mほど行ったところの左手が観光地として整備された「南山風情街」の入口である。

なお、七七広場の手前には「南山風情街」への看板がある。

日本人家屋は七七街、哈爾濱路、南山路近辺に点在している。

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