「白玉山塔」
「白玉山塔」は日露戦争で戦死した日本軍兵士を慰霊するために明治40年(1907年)に建設が開始され、2年5ケ月をかけて完成した。
当初は「表忠塔」と名付けられた。昭和20年(1945年)のソ連軍進駐の際に「表忠塔」の文字は削り取られ、「白玉塔」と改名された。さらに昭和61年(1986年)に現在の「白玉山塔」と改名された。
塔の高さは66.8mであり、18個の窓がある。
塔の内側には螺旋階段が設置されていて展望台に上ることができるようになっている。
階段は273段であり、アメリカに発注された。塔の柱や外壁の材料はほとんどが日本から輸送されたものであるが、旅順港閉塞作戦で沈められた船を引き揚げて再利用された材料もあるようである。
塔の上の展望台に出ると旅順港のほか、旅順市街からロシア軍が要塞を築いていた山々も一望できる。
展望台からみた旅順港である。旅順港は湾の中にあり、湾自体は奥行きが東西4kmほどの幅がある。しかし、入口部分は幅500m程度であり、写真中央の陸地が細く延びた砂嘴のような部分ではわずか200mである。日露戦争時にロシアの旅順艦隊に対して日本艦隊は優勢であったが、ロシアが欧州方面のバルチック艦隊を回航して旅順艦隊と合流してしまうと、制海権はロシアに渡り、大陸方面への補給が困難になることが予想された。日本海軍はバルチック艦隊到着前に旅順艦隊の撃破を狙ったが、旅順艦隊は堅固な沿岸砲台に守られた旅順港に立てこもっており、直接攻撃ができなかった。そこで日本海軍は旅順港の入口の狭さに注目し、ここに老朽船を沈めて旅順艦隊を港内に封じ込める「旅順港閉塞作戦」を三次に渡り実施した。しかし、ロシア軍はサーチライトを効果的に使い、沿岸砲台から激しく砲撃を浴びせて閉塞作戦を失敗させた。
展望台から北東側には「203高地」が見える。
同じく北西側には「東鶏冠山北堡塁」が見える。(→)
旅順港閉塞作戦に失敗した海軍は陸軍に対して陸上からの旅順攻略を要請した。陸軍は旅順攻囲戦を実施し、旅順港北側の堅固な要塞群を多大な犠牲を払って占領した。
「203高地」陥落後は弾着観測所を設け、陸軍砲で旅順港を直接砲撃してついに旅順艦隊を壊滅に追い込んだ。
「旅順兵器館」
「白玉山塔」には「旅順兵器館」が併設されている。中国軍の装備の展示が中心である。
屋外展示では戦車やミグ戦闘機が展示されている。これらは1元で中に乗り込むことができる。
また、5元で中国軍の制服を貸し出しており、記念撮影することができる。
館内には「九二式重機関銃」が展示されている。
昭和20年(1945年)の終戦で日本軍は中国大陸から日本へ引き揚げたが、その際に大量の武器類が放棄された。
日中戦争中は日本という共通の敵を持った国民党と共産党は国共合作で共闘していたが、日本軍が引き揚げると再び内戦が始まった。国民党と共産党は互いに日本軍が放棄した武器を接収して戦闘に投入した。説明板などはないが、その中の一つだったのではないかと思われる。
口径は7.7mmである。
安定性を重視したために発射速度が450発/分と機関銃としては遅めであったが、命中精度が高いのが特徴であった。
銃把は折りたたみ式ハ字型銃把であり、押金式である。満州などの極寒地においてもミトンの厚手手袋を装着したまま射撃できる工夫がされていた。
「旅順兵器館」の敷地内には「白玉神社納骨祠」があった。元々は納骨祠の上に社があったが、現在は中国が艦艇のような概観に改装した。
納骨堂は半地下の部分にある。
ここには日露戦争で戦死した22723人の日本軍兵士の骨灰を収容していた。
現在は三つの納骨スペースは空っぽである。
写真が展示されており、当時の「白玉神社納骨祠」の様子が分かる。
写真を見ると鳥居もあったようである。