大東亜戦争におけるマリアナ諸島の歴史

マリアナ諸島(Mariana Islands)は、日本から南に約2000㎞、フィリピン諸島から東に約2000㎞、北緯13°~21°・東経144°~146°、ミクロネシアの北西部に位置し、南北約800kmに渡って約15の島が並ぶ弧状の列島である。
気候は典型的な海洋性亜熱帯気候である。年間の平均最高気温は27℃で年較差は小さく、一年中泳ぐことができる。4月中旬から10月初旬が雨季であり、10月中旬から4月初旬が乾期である。

全域がアメリカ合衆国の領土である。行政的には南端のグアム島がアメリカの準州、それ以外はアメリカの自治連邦区(Commonwealth)であり、北マリアナ諸島(Commonwealth of the Northern Mariana Islands)と呼ばれる。北マリアナ諸島の首都はサイパン島の「キャピトル・ヒル」に置かれている。
人口は22万426人(2000年現在)、その殆どはグアム島・サイパン島に集中している。サイパン島以北を北部諸島(Northern Mariana Islands)と呼ぶが、ほぼ全てが無人島である。

マリアナ諸島に人が居住し始めたのは、紀元前1500年頃に東南アジア方面から渡って来たチャモロ人が最初と言われている。現在もマリアナ諸島各地には古代チャモロ人の遺跡である巨大な石柱「タガ・ストーン」が遺されている。
18世紀頃には南のカロリン諸島から渡って来たカロリニア人も居住するようになった。

永正18年(1521年)、スペインのマゼラン一行がヨーロッパ人として初めて訪れたが、その際に多くのチャモロ人を虐殺した。寛文7年(1667年)にはスペインが領有を宣言し、スペイン王フェリペ4世の王妃マリアナにちなみ、マリアナの島(Islas de las Marianas)と命名した。これが今日のマリアナ諸島の由来である。
明治31年(1898年)、スペインがアメリカとの米西戦争に破れると、グアム島がアメリカに割譲され、それ以外の島はドイツに売却された。今日、マリアナ諸島に於いてグアム島のみが行政的に別なのはこの時に由来する。

大正3年(1914年)に勃発した第一次世界大戦に於いて、日本は連合国としてドイツに宣戦布告、 日本海軍はドイツ領であったマリアナ諸島を占領した。第一次世界大戦後の大正9年(1920年)、ドイツ領であったマリアナ諸島は、国際連盟によって日本の委任統治領(南洋群島)として認められ、日本が統治する事になった。

日本の委任統治領である南洋群島の一部となったマリアナ諸島(グアム島を除く)には、多くの日本人が移民し、また国策会社であった南洋興発株式会社が進出した。サイパン島・テニアン島・ロタ島を中心として大規模なサトウキビ栽培が行われ、製糖業を中心として酒造・漁業・農業などの産業が大いに栄えた。
また、日本統治時代には各地に現地人の為の公学校や病院が建設され、教育や医療が広く普及した。

昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争開戦後、マリアナ諸島は戦略的に重要な場所としてクローズアップされる事になった。マリアナ諸島は、日本軍にとっては日本本土を守る絶対国防圏の要衝であり、米軍にとっては日本本土への戦略爆撃を行う足がかりとして最適な場所であった。
昭和19年(1944年)6月、遂に米軍はマリアナ諸島に侵攻を開始した。これに対して日本軍は航空兵力と機動部隊(空母を中心とする艦隊)の総力を挙げて迎撃(「あ号作戦」)したが、米軍艦隊の前に敗北し、マリアナ諸島は制空権・制海権を奪われ孤立、守備する日本軍部隊と一般邦人は米軍の包囲網取り残された。
6月~7月、米軍はグアム島・サイパン島・テニアン島に上陸を開始、日本軍部隊は補給・増援の全く無い中で必死の抵抗を続けたが、米軍部隊は圧倒的な兵力・物量で押寄せてきた。日本軍の防衛線は崩壊し、将兵は次々と斃れていった。追い詰められた残存の部隊も総攻撃を敢行して全滅、一般邦人の多くも捕虜になる事を良しとせず自決していった。実に5万人を越える日本軍将兵・一般邦人が゙玉砕し、マリアナ諸島は米軍に占領された。
また、多数の現地人が米軍の攻撃に巻き込まれて死亡し、繁栄していた産業も米軍によって破壊され尽くした。

戦後、グアム島は再びアメリカ領となり、昭和25年(1950年)にはアメリカの準州として自治権を得たが、米軍にとって戦略的に重要な場所である事に変りはなく、現在も多くの面積を米軍基地が占めている。
グアム島を除く北マリアナ諸島は、昭和22年(1947年)に国連の信託統治領となり、昭和61年(1986年)にはアメリカの自治連邦区として併合され、現在に至っている。

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