大東亜戦争におけるフィリピンの歴史

フィリピンは東シナ海に浮かぶ7107の島から成り立つ共和国である。面積は約30万平方kmで日本の約8割の面積である。フィリピン諸島は日本列島と同じく環太平洋造山帯に属している。国土は起伏に富み火山が多く、平野が少ないところは日本と似ている。熱帯性気候で年間を通じて暖かく、年平均気温は26~7度である。6~11月が雨季、12月~5月が乾季であるが、地域差は大きい。人口は約8857万人(2007年)であり、大多数がキリスト教徒である。首都はルソン島中央部のマニラである。

フィリピンに初めて到達したヨーロッパ人はかの有名なマゼランである。マゼランはセブ島の内戦に介入して戦死したが、その後スペインは遠征隊を送り込み、1571年にマニラを陥落させてフィリピンを植民地化した。1898年に米西戦争が勃発すると、武装組織のリーダーであったエミリオ・アギナルドは独立支持を条件にアメリカと協力してスペイン勢力を駆逐し、1899年にフィリピン第一共和国の建国を宣言した。しかし、アメリカの狙いはスペインからフィリピンを奪うことであった。米西戦争がアメリカの勝利で終わると、アメリカはパリ条約でスペインにフィリピンを譲渡させた。アメリカは陸軍部隊を送り、米比戦争のち1902年までに米軍は主要部を占領し、フィリピンは再び植民地化された。

昭和16年(1941年)に大東亜戦争勃発と同時に、日本軍は南方作戦の一環としてフィリピン攻略戦を実施した。フィリピン諸島は日本と南方資源地帯の中間に位置し、ここが米軍に抑えられたままだと南方との海上輸送ができないからであった。

ルソン島北端のアパリなどに上陸した第14軍は、翌年1月にマニラを、4月にバターン半島を占領した。5月6日にコレヒドール島に立てこもる米比軍が降伏を申し入れ、翌日には全在比米軍が降伏した。

バターン半島の米比軍が降伏したとき、約76000人が捕虜となり、これは日本軍の予想していた25000人を大きく上回るものであった。バターン半島は未だ米比軍が立てこもるコレヒドール島の目と鼻の先にあり、捕虜を後方のオドンネル基地に移送する必要があった。日本軍は、30kmを行軍し、53kmを200台のトラックで輸送する計画を立てていた。

しかし、捕虜の数が予想以上に多く、またトラックが故障やコレヒドール島攻略のための物資輸送のために必要数が確保できず、半数以上の捕虜が全行程を徒歩で移動することになった。日本軍では一日数十キロの行軍は特に珍しいものではなかったが、食料が尽きマラリアが蔓延していた米比兵の体力は極端に低下しており、行軍の際に1万人あまりが命を落とした。これは「バターン死の行進」と呼ばれ、アメリカ国内での反日感情を煽る宣伝材料とされた。

日本のフィリピンにおける軍政は、物資調達による食糧不足などにより余りうまくいかなかったようである。また、アメリカはフィリピン人ゲリラ組織を支援し、日本軍は討伐に手を焼いた。

昭和19年(1944年)10月、フィリピン奪還を狙う米軍がレイテ島に上陸を開始した。日本海軍は米輸送船団を攻撃すべく戦艦「武蔵」を始めとする大艦隊を送ったが、米艦隊の戦力は更に強力であった。「レイテ沖海戦」にて「武蔵」を始め多数の主力艦艇が撃沈され、日本海軍は事実上壊滅した。制海権を取られたままレイテ島を決戦場に選んだ日本陸軍は、輸送・補給もままならず多くの戦力を失った。

続けて米軍はルソン島に上陸し、マニラ市街に立てこもった日本軍に対する砲爆撃によって約10万人の市民が巻き添えとなった。昭和20年(1945年)2月にマニラは陥落した。フィリピン防衛戦では、大東亜戦争の戦線の中で最も多い33万6千人の日本軍将兵が戦病死した。

米軍はフィリピン諸島の飛行場から発進させた航空機で東シナ海を哨戒し、南方航路を封鎖した。日本軍は「北号作戦」や「南号作戦」で戦艦を輸送船代わりにしてまで資源の輸送を試みたが、3月に航路は完全に閉鎖に追い込まれた。

1946年、フィリピンはアメリカの強い影響を受けつつも独立を果たした。米軍は戦後も反共主義の前線基地として在比米軍を駐留させた。1980年代後半からは米軍基地への反対運動が高まり、1992年に米軍はフィリピンから撤退した。1995年に中国がフィリピンと領有権を争う南沙諸島を占拠する直前のことであり、基地問題と軍事バランスとの両立の難しさを感じさせる。

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