日露戦争と大東亜戦争における大連・旅順の歴史

大連の日本統治時代の近代建築
大連駅周辺
露西亜町周辺
中山広場
中山広場東側
大連港周辺

旅順の日本統治時代の近代建築・戦跡
旅順市街
旅順郊外

大連・旅順の博物館・戦争遺跡の詳細
満鉄本社・満鉄旧跡陳列館
日露監獄旧址博物館
白玉山塔・旅順兵器館
203高地の詳細
東鶏冠山北堡塁の詳細

大連市は中華人民共和国北東部の遼寧省の南部、遼東半島の南端に位置する。旅順は遼東半島の更に最南端に位置し、現在は旅順口区として大連市に編入されている。かつては外国人の立ち入りが禁止されていたが、現在は観光客にも解放されている。遼東半島は東は黄海、西は渤海に挟まれており、対岸には青島などがある山東半島がある。市街区は山地や丘陵が多く、平地は少ない。北緯39度であり、日本では仙台とほぼ同じ緯度にあたる。海に突き出した半島にあり、気候は海洋性の性質を持つ。

日清戦争が日本の勝利に終わったあと、明治31年(1898年)の下関条約によって遼東半島の割譲が決定されたが、ロシアが主導とする三国干渉によって日本は遼東半島を清に返還させられた。ロシアは極東進出のため、満州における権益拡大と大連港という不凍港を狙っていたのである。ロシアは三国干渉の三年後、日本から返還させた関東州(大連、旅順など)を租借した。ロシアは大連に東清鉄道の終着駅を設け、港を整備した。都市設計はパリをモデルとし、中心から放射状に広がる配置とされた。

遼東半島を獲得したロシアはさらに南下政策を取った。その結果、朝鮮半島で日露の利権争いが起き、明治37年(1904年)2月10日に日露戦争が勃発した。日本陸軍の第一軍は朝鮮半島仁川に上陸し、5月1日の「鴨緑江会戦」でロシア軍を破って満州方面へ進攻した。続けて第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、「南山の戦い」で半島付け根のロシア軍陣地を攻略して大連市を占領した。

一方、日本海軍は大陸への海上輸送路を確立すべくロシア旅順艦隊への攻撃を試みたが、旅順艦隊は要塞砲で守られた旅順港から積極的に出ようとしなかった。そこで、海軍は旅順港入口に老朽船を沈めて旅順艦隊を封鎖する「旅順港閉塞作戦」を実施したが、要塞砲に阻まれて失敗に終わった。日本海軍は旅順周辺の海上封鎖を続けたが、ロシアが欧州方面からバルチック艦隊を回航して旅順艦隊と合流されてしまえば、制海権はロシア側に渡ることが明白であった。そのため、海軍は陸軍に大連市から陸路での旅順攻略を強く要請した。

海軍の要請を受けて第三軍が編成され旅順攻略に向かった。旅順には東鶏冠山北堡塁などの近代要塞群が何重にも構築されており、第三軍の「旅順攻囲戦」は難航した。203高地の争奪戦では日露両軍ともに戦死5000名、戦傷10000名以上を出す激戦が繰り広げられたが、12月24日ついに陥落した。203高地で戦力を消耗したロシア軍旅順要塞守備隊は、他の要塞群も守りきれなくなり降伏した。なお、現在は東鶏冠山北堡塁も203高地も観光地となっている。

旅順を占領した第三軍と新たに編成された第四軍は、第一軍と第二軍に合流して満州方面に進攻したが、奉天付近で戦線は膠着した。しかし、日本海海戦において日本艦隊が回航されてきたバルチック艦隊を壊滅させたことたことで、ロシアは日本の海上補給路を絶つ芽がなくなった。これをきっかけとして明治38年(1905年)9月、ポーツマス条約により両国は講和し、関東州の租借権と南満州鉄道がロシアから日本に譲渡された。

昭和14年(1939年)から始まった第二次世界大戦は当初枢軸国側が優勢に推移していたが、昭和19年(1944年)頃からは戦局は完全に逆転していた。昭和20年(1945年)5月にベルリンがソ連軍によって制圧され、ドイツが連合国に降伏すると、欧州戦線がフリーハンドになったソ連は、シベリア鉄道で欧州から極東に逐次兵力を移動させていった。極東への兵力の配備を終えたソ連は、ついに昭和20年(1945年)8月8日に日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告を行った。

このとき、満州の精鋭部隊は米軍の侵攻に対応して太平洋方面へ抽出されていた。関東軍は在留邦人などを動員して74万人の兵員が集めたが、大半は訓練不足で事実上の戦力は30万人程度だったと言われる。重火器類は火砲1000門、戦車200両、航空機200機であった。対するソ連軍は兵員157万人、火砲26000門、戦車・自走砲5500両、航空機3400機で日本軍を圧倒しており、防衛線は瞬く間に壊滅した。8月15日に日本政府がポツダム宣言を受諾したあとも、ソ連軍は侵攻を止めず、作戦は9月始めまで続けられた。大連市のほか満州国、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島も占拠された。

大連市の街並みは中心から放射状に広がっており、ロシア統治時代のパリ様式が現在も受け継がれている。また、多くの満鉄時代の建物が歴史保存指定を受けて遺されており、現在も補修をしながら使われているのを観光できる。旅順は軍港という場所柄、外国人立入禁止区域が設けられツアーでないと観光しづらい場所であった。しかし、現在では開放政策を受けて軍港近くの一部の地域以外は自由に観光できるようになった。203高地や東鶏冠山北堡塁などでは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の舞台となった日露戦争当時の激戦の跡を観光することができる。

大連・旅順の交通情報

日本から中国各主要都市には直行便が運航されている。
日本から大連への玄関口は大連市街地から北西にある大連周水子国際空港であり、東京からは3時間程度の空の旅である。元は日本軍の海軍の飛行場であった。現在は軍民共用空港として旅客機のほか中国軍機も離発着している。

大連はタクシーが多く流しており、安くて便利である。ほとんどの運転手は英語が通じないが、行き先を漢字で紙に書けば大体通じるだろう。
初乗りは3kmまで8元。以降1kmごとに1.8元ずつ加算される。

路線バスや路面電車もあるが、旅行者には少し使いづらい。

大連から旅順への移動は高速バスが便利である。大連市街南部の黒石礁バスターミナルから15分に1本程度運行している。大連市街中心部から黒石礁バスターミナルへは、路面電車202路で行くことができるほか、付近にはタクシーが多く流している。運賃は7元であり、40分程度で旅順中心部の旅順汽車站(バスターミナル)に到着する。なお、旅順から大連への終バスは18時50分である。

大連駅から旅順駅へ鉄道で行くこともできるが、一日2便で快速で1時間、普通で2時間かかるために不便である。料金は快速が7元、普通は4.5元である。しかし、旧満州鉄道旅順支線の車窓から日露戦争の舞台となった遼東半島の風景を眺めるのも風情があるだろう。

旅順市街ではタクシーが多く流しているが、郊外の観光地ではほとんど捕まらないので、タクシー運転手と交渉して観光地の駐車場で待機しておいてもらうのが良いだろう。走行料金は大連とほぼ同程度だが、待機してもらう場合は交渉となる。

また、旅順市街ではバスが運行しているが旅行者には分かりにくい。
(2010年現在)

大東亜戦争遺跡
「大東亜戦争遺跡」について「大東亜戦争全史」と並び、本サイトのメインコンテンツです。日本国内や東アジア・中部太平洋方面には、大東亜戦争に関する遺跡・遺物が多数遺されています。それらは、かつて戦闘が行われた場所であったり、当時の兵器類であった...
大東亜戦争における中国の歴史
中華人民共和国は世界1位の人口13億3630万人(2008年)を擁する。漢民族が92%と大多数を占め、55の少数民族が残りの8%を占める。面積は約960万平方キロメートルとロシア、カナダについで第3位であり、日本の約25倍である。国土が広く...