博物館概観
「戦争興和平紀念館」は元台湾籍日本兵の許昭栄氏が建てた記念館である。入口には大きな自然石を使ったモニュメントがある。
広々とした広場にはいくつかの碑がある。
終戦後の昭和27年(1952年)に結ばれた日華平和条約において、日本は台湾における領土権を放棄し、中華民国(台湾)は日本に対する賠償を放棄した。台湾籍日本兵は大東亜戦争中は日本兵として戦ったが、日本軍人が受けた補償が受けられなかった。条約で日本国籍と補償を受ける権利を失ったからである。
さらに、中華民国(台湾)にとって日本兵は敵兵であったため、復員後は冷遇され、大陸に送られて共産党軍との戦闘に投入された。許昭栄氏は政府に請願して慰霊碑の建立の土地を確保したり、自費を投じて慰霊碑を建立したりと、台湾籍日本兵の境遇を広く訴えるために奔走した。
許昭栄氏は、政府が台湾出身戦没将兵に不公平な差別待遇を取っているとし、平成20年(2008年)にこの地で抗議の焼身自殺した。享年80歳であった。現場には「許昭栄烈士自焚殉道現場」の碑がある。
直接的なきっかけとなったのは、高雄市議会が公園名から「戦争」という文字を外し、「八二三砲戦勝利記念公園」と改名することを決議したこと、台湾政府が「台湾無名戦士紀念碑」を事実上の撤去を行う方針を決めたこと、だったそうである。
広場を抜けたところの建物が資料館となっている。
館内展示
館内はパネル展示がメインであり、収蔵品はあまり多くない。個人が作った記念館であり、政府や市の全面的なバックアップは受けられなかったのではないかと思われる。
許昭栄氏の軍帽である。中央の白いものは海軍軍帽、となっている。右手前のものは中華民国時代のものであろうか。
右手前は「大東亜戦争紀念之章」である。中央のものは飛行胸章、水筒や飯盒類も軍支給のもののようである。
戦争中に日本人が台湾人に向けて送った葉書が展示されている。文面は日本語で書かれており、時候の挨拶から相手の体調を気遣うような内容であった。「検閲済」の判が戦争中であったことを感じさせる。
中華民国(台湾)海軍が志願兵を募集する公告である。日付は中華民国35年(昭和21年・1946年)6月28日となっている。当時の中華民国(台湾)の海軍は創設されたばかりで人材がおらず、日本海軍での経験のある元台湾籍日本兵が必要とされた。第四項の「登記資格(応募資格)」を見ると、「受日本海軍各科訓練…」となっている。
資料館の壁面のモザイク画である。同じ人物が日本、国民党、共産党の軍服を着ている。台湾の若者はそれぞれ日本、国民党、共産党のために戦った。誰のために戦うのか?何のために戦うのか?当時の台湾の若者の苦悩を表現した作品である。